第1話 5年愛の終焉と、年収フィルターの幕開け
「別れてほしい」
冷房が効きすぎているカフェの空気が、さらに冷え切った。向かいに座る恋人、森拓也の言葉が私の耳に突き刺さる。
「え…?どうして?」
私、権田桃子は食品メーカーの総務部で働いている。入社すでに十年目、仕事も人間関係もそつなくこなしてきたつもりだ。プライベートでは、同期で恋人の拓也との結婚を夢見ていた。
「桃子にはいろいろ感謝してる。だけど俺たち、価値観が合わないと思うんだ。桃子は、俺には出来すぎた女っていうか……俺、本当はもっと明るくて底抜けに楽しい子が好きなんだよね。多少はバカでもいいからさ」
この男はなにを言っているのだろう。もう5年も付き合ってきて、今さら、そういうことを言う?
そもそも5年前、そっちが積極的にアプローチしてきたんでしょ? めっちゃタイプなんだって、連日ラインくれたよね? 今では半同棲状態で、調布の私のアパートには、あなたの私物、普通に置いてあるよ?
「拓也…あのさ、もう少しちゃんと話し合って…」
言いたいことがたくさんあるのに、言葉が詰まってしまう。拓哉は拓哉で、すでに面倒くさそうに顔を横に向け、私を見ようとしない。
「別れた方がいいんだって。お互い、新しい人生を歩もう。私物は着払いで送ってくれればいいから。あ、会社で会ったら普通にしてくれよな」
彼は立ち上がり、カフェを出て行った。一人残された私は、眼の前の、まだ口をつけていないアイスティーを凝視する。5年間の思い出が、走馬灯のように駆け巡る。
どうしてなの? 今日、この夏の旅行の計画を一緒にたてようって、そういう約束だったよね?
先週末はうちに泊まって、拓哉が張り切ってカレー作ってくれて、味は辛すぎたけど、二人で笑いながら食べたよね? 拓哉が似合うよって薦めてくれた白いワンピース、ネットで注文して、まだ届いてもいないんだけど?
私は涙をこらえきれず、顔を覆って静かに泣いた。カフェの喧騒が遠のいて、アイスティーの氷が溶ける音が、カラン、とひとつ、静かに響いた。

拓哉が営業部の澤井ユカと婚約したと聞いたのは、その2日後のことだ。可愛いと評判の女の子で、年齢はまだ25歳。しかもすでに妊娠しているという。なにが価値観が合わない、だ。ようするに、私は二股をかけられていたのだ。そして体よく追い払われ、若くて素直なタイプの女子に乗り換えられてしまった。
私たちが長く付き合っていることは、会社の多くの人が知っていた。私は周囲の人たちに気を使われていると感じていたが、ある日、給湯室で後輩たちが話すのを聞いてしまった。
「権田先輩もかわいそうだよねえ。絶対自分が結婚するつもりでいたよね」
「でもさ、正直、澤井の方が結婚相手としちゃいいよね。権田さんってもう32歳でしょ? 女は若くて可愛い方がいいに決まってるし」
「澤井さ、絶対に計画的に妊娠したよね。30までには結婚して子供産むって、前に言ってたもん。権田さんも森さん逃がしたくなかったら、もっとうまくやればよかったのに」
「ここだけの話だけど、あたし、権田さん苦手なんだよね。自分の意見はっきり言わないし、上司には媚び売って、後輩にもいい顔して。で、お腹の中では何考えてるのかわからないっていうかさ。自分の欲望に忠実な澤井の方が何倍もマシ」
「やめなよぉ。今そういうこと言うの。権田さん、すっごくかわいそうなんだから」
私は彼女たちのクスクス笑いから逃げるようにして、その場から走り去った。
数日後、私は新たな目標を掲げた。それは、「年収1000万以上のハイスペック男性と結婚する」こと。拓哉以上の男と結婚し、幸せになって見返してやる。
拓哉は明治大学経済学部卒業で、営業職。年収は600万円。社交的でハイブランドの洋服や時計を好み、生活も派手だった。私は彼に懇願され、お金も貸している。全部で60万円くらいだろうか。いずれ結婚するだろうから、ということで貸したお金だった。
きっともう取り返すのは無理だろう。借用書もないし、お金のことでこちらから連絡するのも気が引ける。
後輩たちの話も当たっているのだ。私は昔から、男性を見る目が今ひとつだった。押しに弱く、求められれば交際を受け入れてしまう。付き合って一週間の彼に、朝、ホテルに置き去りにされたこともある。その夜、サークルで会ったとき、彼は私を無視した。交際が始まったと考えていたのは、私だけだったのだ。友人は、私が主体性が弱くて八方美人なのもいけないと言う。でも、この年になってもわからない。どうやって場の空気を悪くせずに自己主張をすればいいのか。そんな私でも、拓哉とは今までで一番付き合いが長く続いていたし、そろそろ親にも紹介するつもりでいた。
結局、私はお金も若さも彼に消費され、捨てられたのだ。まるでくたびれて古くなった下着のように。
「もう二度と、男に振り回されるのはごめんだわ。あざとく、しぶとく生き抜いてやる。経済力のある男性と結婚すれば、安定した生活を送れるし、拓哉や会社の人たちを見返すことができる」
私は初めて、婚活サイトに登録した。年収の高い男性しか登録できないと言われる有名な婚活サイトだ。男性には収入審査が、女性には容姿審査がある。私は審査を無事に通過することができた。
プロフィールには、自分の容姿や性格、趣味などを詳細に記入する。
【権田桃子のプロフィール】
- 年齢:32歳
- 職業:食品メーカー事務職
- 年収:350万円
- 学歴:日本女子大学家政学部
- 容姿:黒髪ロングヘア、色白で童顔、身長158cm
- 性格:明るくポジティブ、真面目、努力家
- 趣味:料理、食べ歩き
本当の趣味は囲碁と日本酒の利き酒なのだが、おじさんくさいと拓哉に揶揄されことがあったため、伏せておく。正確は明るくポジティブと言うより、くよくよしがちだし、人見知りもけっこうする方だ。普段、あまり料理はしない。嘘をつくのは後ろめたいが、ありのままの自分に自信がなかった。
その分、プロフィール写真にはこだわった。プロのカメラマンに依頼し、自然な笑顔を引き出した写真を撮影。プロフィール全体が、明るく魅力的に見えるように工夫した。
登録後、すぐに複数の男性から「いいね!」が届く。私はその中から3人の男性に絞り込み、メッセージのやり取りを開始した。
【三橋翔太】
- 年齢:35歳
- 職業:外資系コンサルタント
- 年収:1500万円
- 学歴:東京大学卒
- 趣味:ゴルフ、旅行
【国枝幸太郎】
- 年齢:38歳
- 職業:医師
- 年収:2000万円
- 学歴:京都大学医学部卒
- 趣味:テニス、ワイン
【菅谷友樹】
- 年齢:33歳
- 職業:IT企業経営者
- 年収:1200万円
- 学歴:早稲田大学卒
- 趣味:映画鑑賞、読書
今後は彼らとメッセージを交換しながら、それぞれの性格や価値観を探っていくことにしよう。
それでも社内でたまに拓哉の姿を見かけるたび、どうしようもなく苦しくなってしまう。
拓哉にとって、私との5年間はなんだったんだろう。
「私、本当に幸せになれるのかな…」
私は拭いきれない不安とともに、確かな期待を胸に、婚活の第一歩を踏み出した。
第2話に続く。
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには一切関係ありません。